Dear Chameleon from N

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Dear Chameleon,

1.

今日では何が私たちの景観であり、言語であるか、つまり、なにが私たちの真理でありうるか。そして、たぶん私たちは、自らを「生ける身体そのものについてみずから世界を形成する生息者として、直接研究し、詳細に解明する自己実験」(荒川『建築する身体』)として生きることで、とりわけ<新しい主体性の生産>に直面し、参加しているのではないだろうか。社会的な変動が起こるたびに、曖昧さや潜在性さえともなう主体的再転換の運動が存在するのではないか。これらの問いは、人間の普遍的権利について語ることよりもはるかに重要と考えられるものだ。

2.

この住宅はどんな場所においても、空間の特殊な構造化がおこなわれている。部屋の中から気づくのは、近いものと接合したものの分割であり、砂丘によって不連続にされたと同時に開かれた並列である。この空間を砂丘から分離するのは、もはや連続した大きな壁ではなく、私を取り囲み、幾重にも横切る無数の線の断片の抽象にほかならない。

3.


実際、部屋は、キッチンの城壁と濠と、天井から吊りさがるあらゆる樹木の不透明な森林との環の周りにしつらえられているのだが、しかし、その中心そのものは、なんらかのエネルギーを振りまくためにそこにあるのではなく、部屋のいっさいの動きに空虚な「台風の目」を与えて、あらゆる動作に永久の旋回をもたらすために、そこにある。そして、空虚な柱にそって、非現実的な身体が旋回しては、また方向を変えながら、循環しつつ、拡大していく。

4.


公共のハンモックは、あまりに激しく、しかもあまりになめらかに人々に迫ってくるために、なんにしろ内に包まれているものが「形をとる」以前に、表象自体が書きこまれてしまうような出来事の瞬間的な変異である。もし、発生学における組織の陥入や、子どもの手が、靴下の〈中身〉をその羊毛の袋から抜き取った時のように(すると度肝を抜かれることが起こった)、内が外のねじり、固定、折り返しによって成立するとすれば、内のどんな空間も、距離とは無関係に、そして一つの生物の限界上で、位相的に外の空間と接触している。このような構造が、相対的、媒介的な外部性と内部性を導き出す。だから、自己との関係は、外との関係と相同的である。そして二つの関係は相対的に外部的な(それゆえ相対的に内部的)な環境に他ならない様々なコンテクストを触媒にして何層にも拡張していく。内のすべてが、様々な身体の限界で能動的に外に向けて出現するのだ。

5.


中心をうばわれた空間は、同時に、上下逆転可能の存在である。上と下との、右と左との反転のほかには、なにごとも起こりはしない。すでに中身は追い出されてしまっていて、つかまるところももう戻ってくることはない。しかしそれは、心情が身体的にも精神的にも圧迫されることなく、両方の面にわたって活動する中間の気分を呼び起こす。すると、いつのまにか第三の、遊びと仮象の楽しい領域を作り上げてゆき、人間からあらゆる束縛を取り去り、およそ強制と呼ばれるようなことからは、身体的にも精神的にも解放する。

6.


あらゆる形態が一時的なものであることは明らかである。なぜなら、形態は、力の様々な関係に依存し、これらの突然変異に依存するからである。ある哲学者によれば、〈人間〉という形態は、それ自身、有限性の襞において初めて成立した。本来、人間のなかの様々な力は、無限に向けて上昇する力と関係する。上昇する力はまさに外の力である。人間は圧迫されているので、彼自身を貫くもっと完全なこの力能に、彼自身は気づくことができない。

Sincerely,

 

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