十應篇

空間であるような身体、芸術であるような都市、音楽であるような建築のための、いくつかの覚書き。

presented by R.Yoshino

<最新の記事>

#014 ミシェル・フーコー『わたしは花火師です―フーコーは語る』

最近、フーコー『わたしは花火師です』を巡って議論をする機会があったので、やや季節外れではあるが、花火について少しメモを残しておこうと思う。…続きを読む

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#013 浅田彰『構造と力―記号論を超えて』

「もし前へという言葉の魅惑が普遍的なものになったのだとするなら、それはもうすでに、死がほんの間近から私たちに語りかけているからではなかろうか?」…続きを読む

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#012 プラトン『パイドロス』

建築家の竹山聖はパイドロスのことを「良い聞き手であり、迷えるハンサム・ガイである」とユーモアたっぷりに評している。確かに、プラトンの対話篇に登場する論者の顔ぶれの中でもパイドロスほど親しみやすい人物はいない。…続きを読む

#011 ロラン・バルト『エッフェル塔』

駒場の表象の授業で読むことになっているエドゥアルド・コーンを眺めながら、アニミズムやトーテミスム的な解釈枠組みの次なるあり方を思考していたところに、今回の設計課題が降ってきた。早稲田の建築学科との合同課題で、「都市のトーテミスム」というテーマのもとコミュニティセンターを設計するというものだ。…続きを読む

#010 清水博『〈いのち〉の自己組織: 共に生きていく原理に向かって』

全体と部分の関係性をどうするか、というアポリアとは一生つき合い続けないといけない。僕が一応は軸足を置いている建築にせよ音楽にせよ、部分の総和が全体になるということは無く、色々なレベル、スケールにおいて、いわゆる「創発」が起こっている。…続きを読む

#009 川上弘美『神様』

橋姫の伝説は、日本のいたるところに残されているらしい。伝承の内容はそれぞれの地で色々なヴァリエーションがあるが、橋姫のいる橋に「境界」の意味が付与されているという点では概ね共通するようだ。鬼や神のような人知を越えた存在として描かれることもある橋姫は、…続きを読む

#008 内藤廣『構造デザイン講義』

内藤廣のことは書籍や建築作品、図面でしか知らないが、僕は勝手に、「理論なき理論」を意識的に実践している建築家なのではないか、と思っている。体系としての建築理論や方法論を持たないということそれ自体が、…続きを読む

#007 槇文彦ほか『見えがくれする都市〔江戸から東京へ〕』

建築の世界にいると、言葉遣いの独特さや、レトリックの奇妙さに出会うことがしばしばある。「見えがくれ」「奥」「間」「界隈」「うつろい」「場所」など、比較的普遍性が高く一般的に用いられる語彙であっても、…続きを読む

#006 芥川也寸志『音楽の基礎』

最近その講義が書籍化されたようだが、駒場時代の師・小林康夫先生の西洋絵画史は、観察した自然をありのままに表現する技法としてのパースペクティヴ(遠近法、透視図法)が発明された時代からレクチャーが始まった。…続きを読む

#005 デュマ・フィス『椿姫』

娼婦という職業が人間の歴史時代のごく初期から存在したであろうことは想像がつくが、社会から穢れや不道徳、低俗といった烙印を明確に押されたのはいつなのか、という問いに答えることはかなり難しいと思う。…続きを読む

#004 池上高志『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』

「わかること」ではなくて、「わかり方」そのものを考えたいと思う。方法こそが最大の知性であるというスタイルを持ち続けたいと思う。さもなくば、薄っぺらな教養主義に陥るか、あるいは悠久の歴史に埋没してしまうに違いない。…続きを読む

#003 グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』

近頃、モダニズムが何かという問い自体がナンセンスなものだと思えるようになってきた。もっとも、このナンセンスという形容は、皮肉でもなんでもなく、最大限の褒め言葉のつもりなのだが…。…続きを読む

#002 オトレ、コルビュジエ『ムンダネウム』

トルコで世界遺産委員会が開かれている。ほどなくして、ル・コルビュジエの国立西洋美術館が世界遺産になるらしい。僕は対面に建つ前川國男(もちろん、東京文化会館のことである)の方が好きなのだが、 …続きを読む

#001 ウィトルーウィウス『ウィトルーウィウス建築書』

つい先日、デッサンの授業で男性のヌードモデルをクロッキーした。着衣のモデルのクロッキーはすでに経験していたが、生身の肢体と格闘するのはとてもくたびれることだった。…続きを読む

 

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