十應篇#001『ウィトルーウィウス建築書』

投稿日:

20160705 R.Yoshino

ウィトルーウィウス(訳:森田慶一)
『ウィトルーウィウス建築書』
東海大学出版部、1979

つい先日、デッサンの授業で男性のヌードモデルをクロッキーした。着衣のモデルのクロッキーはすでに経験していたが、生身の肢体と格闘するのはとてもくたびれることだった。逃げ出したくなるのである。人間の身体が美しすぎるのがいけないのだ。こんなもの、描けるわけがない。

ダ・ヴィンチのあの人体図が、比によって人体の美しさが記述されているものだとするならば、それはダ・ヴィンチの、そしてウィトルウィウスの恐るべき試みである。具体的な事物を比におきかえるというのは、人類が手にした抽象化の技法のなかでもとりわけ強力で、それだけにときには危険さえ伴うような営みではなかろうか。比は無次元の値であるが、それは、量や大きさを表す最もシンプルな数よりもさらに抽象的な、二つ以上の具体的な量・大きさの関係性によって生み出される無次元だ。関係性そのものを抽象化する技術が比なのである。

アナロギア(比例)がアナロジー(類比、類推)の語源であることをことさら強調しなくとも、比や数字という装置が人間のあらゆる記号、イメージ、表象の形成に関与したことは、例えばライプニッツなどが示してくれていよう。こうした世界観の源流を見出そうとするならば、普通はプラトンか、あるいはピタゴラスの名前が挙がるのかもしれない。僕はここに、彼らより時代は多少新しくなるけれども、ウィトルウィウスの名を加えてみたいと思うのである。

ウィトルウィウスはヘレニズム時代の技術者と言われ、その建築書では、現在の建築学の範疇よりもだいぶ拡張された建築術が描き出されている。確かに、ギリシャ神殿の柱のプロポーションについての記述は現代建築とは無関係に思えるし、今となっては建築に携わる人でも用・強・美の参照先くらいにしか思っていないのかもしれないが、この本は、建築どころか、人間のあらゆる想像力の源を明らかにしようとする、ひとつのコスモロジーを形成しているのではないかと思う。いや、そうとでも思わないと、ル・コルビュジェもヴァレリーも浮かばれないだろうし、僕自身、建築なんてやっていられない。あの輝かしくも儚いモデルニテの影には、ウィトルウィウスの十書があるような気がしてならないのである。

やはり、人間の身体なんてものは、描けるわけがないのだ。

 

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