十應篇#002『ムンダネウム』

投稿日:

20160712 R.Yoshino

ル・コルビュジエ、ポール・オトレ(山名善之、桑田公平訳)
『ムンダネウム』
筑摩書房、2009

トルコで世界遺産委員会が開かれている。ほどなくして、ル・コルビュジエの国立西洋美術館が世界遺産になるらしい。僕は対面に建つ前川國男(もちろん、東京文化会館のことである)の方が好きなのだが、ともあれ、かれこれ10年は通い続けている上野の界隈がまた少し盛り上がるのは満更でもない。

コルビュジエの美術館と言うと、プロトタイプとしての「無限発展の美術館Musée à croissance illimitée」がひとまずは思い浮かぶ。クロニクルを空間構成と対応させ、過去から未来へと続く長い回廊に美術品が並んでいくというものだ。展示および鑑賞という近代的な行為が遂行される装置としての美術館、博物館の歴史は、驚異の部屋Wunderkammerから出発してこのコルビュジエに至るまでを一区切りと考えてよいのではないかと思う(磯崎新の第三世代美術館をどう見るか、これはまた別の機会に譲りたい)。

コルビュジエのこのような発想の背後にあったのが、本書で詳述されているムンダネウム計画である。ひとつの都市に巨大な美術館や図書館、研究施設を集め、あらゆる時代の知を集積しようという壮大な都市計画だ。ヘレニズムの再来、あるいは、マラルメの「一冊の書物」の具現化、とでも形容できようか。さらに、本書で主に理念的な部分の執筆を担当しているポール・オトレは、デューイよりはいささか知名度が劣るかもしれないが、同じく図書の十進分類を構築した人物である。なるほど、そうなるとやはり、ムンダネウムにはアレクサンドリア的なものが下敷きとしてあるという憶測を働かせたくなる。

「読むこと、聞くこと、見ること、観察すること、議論することを通して理解し、感じ、働きかけるべきなのは、世界というただひとつの対象なのである」とオトレは述べる。彼らが果てしない普遍へとアプローチしていく姿は、ユートピア的な、あるいは空想的社会主義のような荒唐無稽さといかがわしさを纏っているようにも見えるが、人間の身体というミクロコスモスを置き去りにするということはない。あくまでも世界は五感を通じて人間と交感するものなのだ。なんだか勇気づけられる。

そう言えば上野も、博物館やら美術館、コンサートホールが集まっていた。芸大や東大もある。上野駅の周辺のジェネリックな風景と喧騒が理想都市に必要かどうか、コルビュジエとオトレに訊いてみたいところだ。もちろん僕としては、こうした要素なしに我々の身体と都市、あるいは身体と知を接続することは難しいだろうと思うのだが。

 

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