十應篇#003『グリーンバーグ批評選集』

投稿日:

20160719 R.Yoshino

クレメント・グリーンバーグ(藤枝晃雄訳)
『グリーンバーグ批評選集』
勁草書房、2005

近頃、モダニズムが何かという問い自体がナンセンスなものだと思えるようになってきた。もっとも、このナンセンスという形容は、皮肉でもなんでもなく、最大限の褒め言葉のつもりなのだが…。

そもそも、モダニズムという言葉は一人歩きしすぎた。一応僕は建築という領域に軸足を置いているから、モダニズム建築という表現は飽きるほど見かける。しかしその多くが、文脈に応じて好き勝手に意味がねじ曲げられているか、あるいは、記号操作的で表面的な議論(例えば無装飾だとか、連続水平窓だとか、ドミノ・システムだとか)にとどまっていているかのどちらかであるように思う。乗り越えるべき対象とするのはまあ良いのだが、そのせいか、歪んだ神聖化、特権化、単純化がなされている気がしてならない。

モダニズムという概念の出自を探るとき、まず避けて通れないのが本書である。グリーンバーグは、ミディアム(メディア、媒体)に対して自覚的になること、すなわち、芸術の形式に対して自己言及的であるということをモダニズムの重要な一面としている。例えば、絵画というミディアムの独自さがその平面性にあることから、モダニズムの画家たちは、模倣によってリアリティのある仮想空間を生み出すことよりも、絵画をあくまで「平面」としてそこに存在せしめるということに関心が向かったというのだ。言い換えるなら、ティツィアーノが「ヴィーナス」を描こうとしたのに対して、マネは「オランピア」ではなく「オランピアの絵」を描こうとしたのである。

所収の評論の中では、やはり「アヴァンギャルドとキッチュ」や「モダニズムの絵画」が美術史上重要なものと言えるだろうが、僕は「イーゼル画の危機」を推したい。イーゼル画という象徴的なモチーフを扱うことで、モダニズム絵画がミディアムの中へと没入していく様子がたった数ページで見事に描き出される。そこでは、自己批判によってイーゼル画という概念が再帰的に更新されていく。

そう、自己批判的であるということは、再帰的であるということである。そして、再帰的であるということは、どこかで無限ということと関わっている。つまるところモダニズムとは、無限というある種の矛盾を絶えず自己の中に回収し続ける、巨大な自己創発システムなのではないかと思うのである。そういえば、資本主義やグローバリズムにもそういうところがあるかもしれない。建築でいうならば、「住宅は住むための機械である」というスローガンがそのエンジンのひとつになっていそうだ。

ともかく、モダニズムは無限であり、終わりがない。その終わらなさが、未だに人々を惹きつけてやまないのだとしたら、我々に残された手段、それは、死なないということ、ただそれだけなのかもしれない。これって、ナンセンスだろうか?

 

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