十應篇#004『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』

投稿日:

20160726 R.Yoshino

池上高志
『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』
青土社、2007

「わかること」ではなくて、「わかり方」そのものを考えたいと思う。方法こそが最大の知性であるというスタイルを持ち続けたいと思う。さもなくば、薄っぺらな教養主義に陥るか、あるいは悠久の歴史に埋没してしまうに違いない。

複雑系科学の先端を行く池上先生が、あえて文系の1,2年生限定で開講した物理科学の授業の通奏低音は、おそらくそういうことだったのではないかと思う。僕はマクスウェル、チューリング、あるいはペンローズの衝撃を同時代のものとして経験することはできないが、いや、できないからこそ、想像力や物語という方法がひとつのわかり方として成立するのである。もちろん、「ひとつの」という条件付きでなければならないわけだが…。

本書では、中間層という考え方が「わかり方」を規定する。例えば、古典的なニュートン力学さえあれば天体の運動は概ね予測できるわけで、それを分子ひとつひとつの運動にまで還元して考える必要は無い。これは、古典力学と言う中間層の精度がわかり方として十分機能するということを意味する。中間層を適切に設定することは、その場面に適したサイズの知をパッケージングすることと言えよう。

そして、ビッグデータ(本書ではマッシヴ・データ・フローと言う)によって、なんでも最小単位に還元してシミュレーション出来る時代が訪れようとしている現代こそ、この中間層という見方は我々人間の希望たりえるのではなかろうか。池上先生は身体性やアートと言ったものに強い関心を寄せているが、なるほど確かに、身体やアートが存在する限り人間は中間層という方法を捨てないだろうし、歴史や感情や文学を捨てないだろう。そういえば、3年前に自分が書いたこの授業のレポートを引っ張り出してみたら、「不要になった『わかり方』は、神話か、あるいは宗教のようなものになるだろう」とあった。中間層の更新(これをパラダイムシフトというのだろうか)が、人間の歴史と文化のエンジンとなってきたことは言うまでもない。

来週、1年ぶりに三鷹天命反転住宅にショートステイする。そもそもこの建築(というよりはアートか、あるいは実験場か)に関心を持ったのは、池上先生の物理科学の授業がきっかけであった。荒川修作の言う「死なない」というシナリオはまだまだ彼方にぼんやりと見える程度だが、自らの身体という中間層を揺さぶって、わかり方のメンテナンスをしてこようと思う。

※画像:池上高志『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』より

 

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