十應篇#005『椿姫』

投稿日:

20160809 R.Yoshino

デュマ・フィス(新庄嘉章訳)
『椿姫』
新潮社、1950

娼婦という職業が人間の歴史時代のごく初期から存在したであろうことは想像がつくが、社会から穢れや不道徳、低俗といった烙印を明確に押されたのはいつなのか、という問いに答えることはかなり難しいと思う。マグダラのマリアのような象徴的な存在こそあれど、古代ギリシャのヘタイラだとか、網野善彦の遊女だとか、あるいは近代パリのクルティザンヌだとかを見るに、社会における娼婦という存在を、浄/穢、聖/俗、真実/虚構といった二項対立にあてはめて語るのは無理がある。娼婦に対する差別的な視線がおそらくは強まったであろう近代ヨーロッパにおいてさえ、マルグリットやナナ、あるいはオランピアやアヴィニョンの娘たちが、娼婦をとりまくコンテクストを複雑かつ多様にしている。

『椿姫』は、こうした娼婦のあり方を巧みに取り込むことで、ある種の普遍性を帯びることに成功した作品だと言える。筋書きとしては、クルティザンヌのマルグリットとアルマンの仲を、社会通念の代表たるアルマンの父が引き裂き、アルマンへの想いを抱え続けたままマルグリットが死んでいく、というごくシンプルな悲劇であるが、シンプルであるからこそ娼婦という存在の持つ多声的な文脈がいっそう際立つのである。『マノン・レスコー』などと比べたとき、『椿姫』が(時に大衆的、通俗小説的という評価がなされるほど)より簡素な美しさとより濃密な描写を両立させているのはそうした手法によるのだろうし、それはまた、ヴェルディによってオペラ化された『椿姫』が今日まで主要なレパートリーとして君臨し続ける所以でもあるだろう。構成美は音楽の明快さによって、濃密な描写はアリアの詩によって、より理想化された形で小説から舞台へとメディアが移し替えられている。

コンテクストを重層的に取り込む、という意味では、1人称とも3人称ともいえる曖昧な語り手の存在についても指摘せねばなるまい。デュマ・フィスの『椿姫』は、マルグリットとの思い出を語るアルマンを、アルマンと偶然出会った語り手が描く、というメタな形式をとっているが、アルマンと語り手の双方に、デュマ・フィス本人の影を感じずにはいられない。アルマンの視点のみで書けば事足りるところを、あえてこのような形式にしたのは、一連の出来事を相対化しタブローの中の戯画として描き出すためかもしれないし、あるいは逆に、現実と小説の世界との境界を限りなく曖昧にするためかもしれない。『マノン・レスコー』の模倣に過ぎないという見立てではこの作品の解釈を誤りかねないし、例えば1年先に完成しているブロンデの『嵐が丘』における語り手のメタな移動などともまた違う。いずれにせよ、デュマ・フィスの人格が小説の中で分裂していることは、解釈上のひとつのアポリアとなりうる。

「神は、教育によって善というものを教えられなかった女のために、彼女らをごじぶんのもとに導く二つの道をほとんどつねに作っておかれるものである。その二つの道とは、悲しみと恋である」。赦しというテーマが根底にあるこの作品において、語り手によるこの一節は誰に向けられたものなのか。マルグリットかデュプレシーか、それともアルマンかデュマ・フィス自身か。あるいは、パリの街角で快楽に生きる無名の娼婦たちなのだろうか。

 

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