十應篇#007『見えがくれする都市〔江戸から東京へ〕』

投稿日:

20160823 R.Yoshino

槇文彦ほか
『見えがくれする都市〔江戸から東京へ〕』
鹿島出版会、1980

建築の世界にいると、言葉遣いの独特さや、レトリックの奇妙さに出会うことがしばしばある。「見えがくれ」「奥」「間」「界隈」「うつろい」「場所」など、比較的普遍性が高く一般的に用いられる語彙であっても、建築の文脈ならではのイメージやコンテクストを纏っているということが多い。中でも僕が奇妙だと思うのは、「ヴォキャブラリー」というヴォキャブラリーである。

建築という営みは、純粋な芸術的行為というよりは社会性の強いデザイン行為であるから、形態や素材、プランなどの要素を言語や記号・ダイアグラム・パターン等に置き換えて、共有されうる理解を生みだす必要がある。そうした、いわば「翻訳的行為」で用いられる言葉、概念、観念、記号を、建築界隈の人々はヴォキャブラリーと呼んでいるわけだ。もちろん、vocabularyという語には表現形式や様式といった意味もあるから、この用語法自体が間違っているとは思わないし、ヴォキャブラリーというカタカナ語がジャンルを問わずそれなりに浸透していることも事実だ。それでも、建築を説明するためのツールをひとまとめに「ヴォキャブラリー」と表現することは、形象を言語へと翻訳するときに免れ得ないある種の危うさ(一番近いのは、柳父章のカセット効果のような危うさ)を象徴しているように思うのである。建築家の言葉は、どこまでも、魔術的だ。

魔術的であることから逃れようとする必要は無いと思うしそれが面白さだと思うが、魔術的であることに対しては意識的でありたい。そうした意識を最もよく喚起してくれたのが、本書であった。本書がいまだに建築の世界で参照される理由はいくつかあると思うが、それは、以上に述べたヴォキャブラリーの魔術性と無縁ではないと思うのである。

第一に、建築論や都市論というよりは日本文化論として書かれたものであること。より大きな問いに向かって、都市のエレメントが変換されていくプロセスの可能性と限界。それはあたかも、本書の主題である「奥」へ向かうかのような様相を呈する。第二に、複数の執筆者によるものだということ。ぼんやりと浮かび上がるいくつかの観念が、異なる文体で変奏されてゆくときに生じるズレや歪み。むしろそのズレまでもが、「見えがくれ」というタイトルの変奏になっている。第三に、東京(江戸)という場所に固定して論じられているということ。この都市がもともと持っているコンテクストが、さらに輻輳され襞状になる。

それから4つ目として付け加えておきたいのが、出版された1980年という時代性。例えば、パリで行われた磯崎らの「日本の時空間―間―」展(1978年)、つくばセンタービルの着工(1980年)、あるいは、浅田彰『構造と力』(1983年)の出版、デリダを参照した脱構築主義建築の流行(1980年代半ば以降)など。時代全体として、ヴォキャブラリーと建築の関係性が新たな局面を迎えようとしている頃だと言っても良かろうか。

アレグザンダーのような手法は極端であるにしても、言葉を使わずして建築を存在せしめることは、様々な意味において不可能だろう(それは、昨今日本の建築界で議論になる、「理論の不在」の問題とも大いに関係しているはずだ)。ならば、その言葉は、何を見せ、何を隠しているのだろう。見えがくれする重層的なイメージやコンテクストへのまなざしこそ、建築に力を与えてはくれないか、と自戒を込めつつ書き記すことにする。

 

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