十應篇#010『〈いのち〉の自己組織: 共に生きていく原理に向かって』

投稿日:

20160927 R.Yoshino

清水博
『〈いのち〉の自己組織: 共に生きていく原理に向かって』
東京大学出版会、2016

全体と部分の関係性をどうするか、というアポリアとは一生つき合い続けないといけない。僕が一応は軸足を置いている建築にせよ音楽にせよ、部分の総和が全体になるということは無く、色々なレベル、スケールにおいて、いわゆる「創発」が起こっている。創発の質までコントロールしたいとはこれっぽっちも思わないが、設計をするにしても演奏をするにしても、それぞれの要素がより豊かに響き合うための工夫は不可欠だし、創造的行為の困難さの多くがそこに収束するのではないかとさえ思えてくる。

清水博の生命論は、そうした全体と部分の関係について一定の見通しを与えてくれる。ミクロには生物の細胞ひとつひとつを、マクロには地球全体を<いのち>と位置づける清水は、細胞<個体<種<…<地球という入れ子構造の階層間に「<いのち>の与贈循環」を見いだす。与贈というのは清水の造語で、ごく簡単に言ってしまえば、ある主体が他者を存在せしめる活き(はたらき)のようなものだと思う。細胞が個体を存在せしめていると同時に、個体があって細胞が存在しえる。そうした与贈循環の中で<いのち>は自己組織化され、豊かな世界が創発される、ということらしい。はじめに「生命論」と言ったが、清水のこうした見方が提出された数十年前の科学からすれば、これはアヴァンギャルドなものだったろう。そのためかどうかはわからないが、本書では、純粋な生命論というよりも、組織論や経済学、日本文化論に応用できる見方として<いのち>の与贈循環が描き出されている。

ところで、そうした与贈循環において重要なのは、部分と全体のうち、全体が先にあるということらしい。自己組織というと、普通個々の挙動が予測不可能な全体を生み出す散逸構造などが連想され、部分の集積がカオスを生み出すということに力点が置かれる気がする。しかし、清水の論は逆で、全体の方向性があってはじめて部分が生きてくるということになっている。本書中のメタファーを用いるなら、先に舞台が用意されてこそ、役者が自由に相互関係を取り結ぶことができるというのだ。もちろん、その場合の全体とは、個々の挙動を事細かに規定するものではなく、あくまで方向性や認識の共有程度の全体でなければならない。清水博が主宰する場の研究所は、そうした全体をいかにデザインするか、という問いのもとで成立していると思うのである。

僕は勝手にこれを「ゆるやかな全体」と呼ぶことにしたが、「ゆるやかな全体」こそ、部分と全体の関係を整理するときのカギになる気がしている。パラダイムやエピステーメーと呼べるほど強力なものであってはいけない。「ゆるやかな全体」を念頭に置きつつ、全体と部分の間でおこる循環的なフィードバックを加速させたとき、全体と部分の関係が自己組織化的に定まっていく。おそらくこのとき、たとえば「設計している」「演奏している」という意識はなくなって、「設計させられている」「演奏させられている」ということになるのではないか。すなわち、最初に「ゆるやかな全体」さえ構想してしまえば、対象は僕という主語を離れ、勝手に生成変化を遂げるはずだ。そういうプロセスを理想と思いたい。

十應篇という「ゆるやかな全体」、あるいは気配屋という「ゆるやかな全体」もまた、ひとつひとつの言葉を豊かに響かせるものとなればよいのだが…。

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