十應篇#011『エッフェル塔』

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20161004 R.Yoshino

ロラン・バルト(宗左近ほか訳)
『エッフェル塔』
筑摩書房、1997

駒場の表象の授業で読むことになっているエドゥアルド・コーンを眺めながら、アニミズムやトーテミスム的な解釈枠組みの次なるあり方を思考していたところに、今回の設計課題が降ってきた。早稲田の建築学科との合同課題で、「都市のトーテミスム」というテーマのもとコミュニティセンターを設計するというものだ。「都市のトーテミスム」という造語自体がほとんど何も言っていないに等しい気がしなくもないのだが、まあ、そもそも設計課題自体が良くも悪くも禅問答的であるのだから、こういう抽象的な議論には程よく付き合っておくのがよかろうと割り切ることにする。

ところで、このテーマは記念碑的建築物の設計を示唆するものではないのだろうが、「都市のトーテミスム」と言われて真っ先に思い浮かんだのはバルトの『エッフェル塔』であった。本書は、エッフェル塔に付随するイメージや想像力を、様々な位相から紐解くものであり、ザックリと言うとすれば、「エッフェル塔は○○である」という主題が次々と変奏されていくヴァリアシオンである。言い換えれば、エッフェル塔という「零度の表徴」(もちろん、『零度のエクリチュール』を前提とした言い回し)が纏ってきた意味を、ひとつひとつ剥がしてゆくエッセイだ。

変奏のひとつに、「エッフェル塔はまさに、一つの種族への合体を可能にする場所である」というものがある。エッフェル塔は、ただパリを象徴するというだけではなく、そこを訪れた人々に身体的経験を与えることで、儀礼的に人々をパリという都市に引き入れているというのだ。観光客を含め、様々な「異邦人」を内包する都市として存在してきたパリであるからこそ、バルトがエッフェル塔に見い出したこの性質は重要に思える。近代化された都市において、近代的な素材と技術によってつくられた塔が、儀礼的な方法で多種多様な人同士の結びつきをもたらすということの奇妙さ。たとえそうした統合が一時的で幻想的なものであったとしても、これを現代におけるトーテムの一形態と見ることはできないだろうか。

レヴィ=ストロースは、「食べるのに適している」のではなく「考えるのに適している」という理由でそれぞれの種族がトーテムを選んでいると指摘する。バルトがエッフェル塔に与えたエクリチュールは、エッフェル塔の経済的価値ではなく表徴としての多層性に迫るものであり、すなわち、エッフェル塔に「考えるのに適している」という価値を見いだしたということになる(あとに続くのが松浦寿輝『エッフェル塔試論』)。過剰と言えるほどの意味やイメージが結節する記号としてエッフェル塔が存在し続けていることを、設計者のエッフェルは想像していなかったかもしれない。

エドゥアルド・コーンがいうように記号の解釈過程が思考であるとするならば、エッフェル塔は、思考される客体であると同時に、思考する主体として、パリという「大自然」の中で今日も生き続けている。

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