十應篇#012『パイドロス』

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20161018 R.Yoshino

プラトン(藤沢令夫訳)
『パイドロス』
岩波書店、1967

建築家の竹山聖はパイドロスのことを「良い聞き手であり、迷えるハンサム・ガイである」とユーモアたっぷりに評している。確かに、プラトンの対話篇に登場する論者の顔ぶれの中でもパイドロスほど親しみやすい人物はいない。いや、正確にいうと、ソクラテスその人こそプラトンが最も親しみを込めて描いたキャラクターなのであろうが、それにしても、ソクラテスとパイドロスの二人が揃うと古典落語を見ているような気分になってついクスっと笑ってしまう(こんなことを言ったら哲学科の人に怒られるだろうか…)。

文学史のみならず、美学史や思想史(そう、デリダも)の観点からも参照されることが多い本書は、恋愛にまつわるリュシアスの議論から、美というイデア的な概念へと話が展開し、最後はそうした当時の弁論術に対してメタに批評を加えるという構成をとる。その根底にはやはり、無知の知的な態度や、知を愛すること(フィロソフィ)への倫理観あるいはある種の希望が流れているのだが、加えて、「狂気」ということがキーワードになっている点が興味深い。

ソクラテスは狂気を人間的な病によるものと神的なものとに分けて後者を称揚し、さらにそれを4つの形態に分類している。とりわけ、4番目の「アフロディテとエロスによる愛の狂気」を取り上げ、神的な領域へのアプローチでもあるような優れた美的経験が、ある種の狂気を伴うということを証言する。さらに面白いのは、そうした一連の発言をするソクラテス自身が神憑り的状態にある、すなわち狂気の人物として描かれていることだ。他の作品でも似た傾向は見られるが、人間的な領域と神的・イデア的領域とを媒介する「シャーマン」となったソクラテスが狂気を語るという自己言及的構図を本書で明確に打ち出したプラトンこそが、本当に狂っている!

そして、この構図において、冒頭で紹介したようなパイドロスのキャラクターが際立ってくる。ソクラテスが相手にする人物は、他の対話篇に見られるような「論敵」ではいけない。ハンサム・ガイであるかどうかはさておき、パイドロスが「良い聞き手」であり「迷える」ある意味凡庸な人物であるからこそ、人間の住まう下界と神的な領域とを行き来する存在としてのソクラテスが成立する。その意味では、パイドロスの方こそがこの作品における媒介者であり、そうした絶妙なバランス感覚のもとでパイドロスというキャラクターは成り立っているように思うのだ(関連して、二人の会話がアテナイの街の外で行われているということにも注意が必要だろう。秩序の象徴たるポリスから逸脱しているのである)。

ところで、プラトンから2000年以上あとになって、ヴァレリーが『ユーパリノス』という作品を残している。これは、建築が主題になっている対話篇で、登場するのは死後の世界のソクラテスとパイドロスだ。この形式をヴァレリーが採用した理由はわからないが、プラトンが芸術の中で建築と音楽に特権的な地位を与えたということ以上に、こうした狂気にまつわる構図やパイドロスのキャラクターが意識されていたのではないかと思うのである。ま、この話はまたいずれ。

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