十應篇#013『構造と力―記号論を超えて』

投稿日:

20170130 R.Yoshino

浅田彰
『構造と力―記号論を超えて』
勁草書房、1983

「もし前へという言葉の魅惑が普遍的なものになったのだとするなら、それはもうすでに、死がほんの間近から私たちに語りかけているからではなかろうか?」(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』より)

クンデラがこんなことを書いていたのを思い出す。シェーンベルクの試みが潰えて終焉を迎えたクラシック音楽の歴史が、近代という時代のダイナミズムと重ね合わせて語られる。子供に語りかけるような優しいたとえ話なのだが、近代の病理を「前へ」という一言に集約するエスプリにはハッとさせられる。

「人々は究極の目的について問うよりも先に、そのつど前進を続けることを至上命題とするのであり、何ら絶対的基準を持たぬまま、より速く、より遠くまで進むことのみを念じてやまないのである」

浅田彰も、脱コード化された近代資本主義社会に住まう人々をこのように断罪する。そして、逃走セヨ、と若者たちを扇動するのだ。近代という時代を引き受けつつも、そこにとどまらず外へ出てゆく運動を不断に続けねばならないと言う。砂漠へと逃れよ、差異を肯定せよ、スキゾ・キッズたれ、真の遊戯者たれ、リゾームを形成せよ…。浅田が次々と連打する勇ましいマニフェストたちは「逃走」というストラテジーの変奏であり、思うに、この『構造と力』という一冊は、浅田自身が逃走するためのアリバイづくりのようなものなのではないか。だから、図式化しすぎだとか、思想史的な厳密さに欠けるだとかいうよくある批判は、本書を前にしてあまり意味をなさない。ともかく、すべては浅田が演じてみせた逃走劇だ。

序章で語られているような80年代の虚無感に包まれたアカデミズムの状況が、現在もあまり変わっていないのだとすれば、我々は逃走に失敗してきたのだろうか、と問うてみよう。しかし、逃走とは、逃げ続ける限りにおいて成功などあり得ない。追手に捕まればもちろん失敗だが、指名手配犯である限りは逃走に完全な成功は無い。他の戦略が見つからない以上、死という終焉に向かって勇ましく行進を続けるか、あるいは、この終わりなき逃走劇を続けるか、いずれかを選択しなければならない(そして、両者は本質的に同じかもしれない)。このクリティカルな状況に自覚的であるからこそ浅田は、例えば、バシュラールや「生きられた」語法のような現象学的空間論を生ぬるく感じるのであろうし、シェーンベルクでは飽き足らずケージまで行こうとするのだ。

本書が単行本として出版されてスキゾやパラノと言ったタームが世を席巻し始めた1883年は、東京ディズニーランドが開園し、ファミコンが発売された年らしい。パレードでスピーカーから流れ出る音楽や、ファミコンの8ビット音楽をクンデラが聴いたら、「音楽の馬鹿馬鹿しさ!」と叫ぶだろうか。私はその時代を知らない世代だが、それでも、この馬鹿馬鹿しさから逃走しようとする感覚を、本書を通じていくらか共有しようとしてみるのである。

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