館長窪島誠一郎氏インタビューVol.1

投稿日:

20160708 R.Yoshino

窪島誠一郎氏プロフィール

1941年東京生まれ。作家、美術評論家。キッド・アイラック・アート・ホール館長、信濃デッサン館および無言館館主。1964年に小劇場の草分けキッド・アイラック・ホールを設立。79年に夭折画家のデッサンを収蔵する信濃デッサン館を、97年に戦没画学生の作品などを収蔵する無言館を設立。『父への手紙』『明大前物語』など、著書多数。

 

2016年5月22日、ホテルニューグランドの一室、伝統的なしつらえを持つ旧館の厳かな光のなかで氏はおもむろに口を開いた。

「キッド・アイラックは、1964年にできて以来、いわば自分の臓器のひとつなんですよ。ちょっとカッコよく言うと、母の胎内」

キッド・アイラック・アート・ホールの創設者で、現在も館長を務める窪島誠一郎氏は、半世紀以上に渡るホールの歴史に幕を下ろす決断をした。冒頭の比喩になぞらえるならば、窪島氏は自らの、そして同時に母のものでもあるような臓器に余命宣告を突き付けたことになる。

 

キッド・アイラック・アート・ホールは、渋谷駅から井の頭線で10分ほどの明大前に立ち続けてきた。キッド・アイラックと窪島氏の歩みは、明大前の歩みと共にある。キッド・アイラックが氏の身体の一部となっていく歴史の舞台は、やはり明大前でなければならないのである。

「東京に来ると10分でもいたたまれなくなるんですね。圧迫感というか、空疎。あれだけ人がいるにもかかわらず、人間のパトスや生命が感じられない。地方都市にいると生きている自分がきっちりそこにくまどられているのにね」

「東京は影絵のようですけれど、でも、明大前に帰ると、不思議ですね、体がほどけるような、たんこぶみたいなひもが解けるような安心感を覚えて…。キッドを閉めることは自分が覚悟したことですけれど、諸般の事情が重なって閉めざるを得ないということになってから、東京に来るのが嫌でね」

 

窪島氏の明大前の記憶は、ちょうど日本が大戦に敗れ、東京中が焼け野原となったあの年にまで遡る。

「子供心に覚えています。宮城県石巻の疎開先から帰ってきたときに、一面焼け野原だったんですけど、明治大学はね、迷彩柄が施されているような感じでぼんやりと浮かびあがるようでしたね」

窪島少年は、明大前で小さな靴屋を営む父と母のもとで育てられた。インタビューの序盤、当時の明大前を語る窪島氏の雄弁さは、記憶を手繰り寄せているというより、経験そのものが映像として氏の身体に埋め込まれているかのようであった。いや、映像だけではない。音や匂い、味や手触りといった明大前のうつろうおもかげに裏打ちされた実感が、氏の言葉には確かに存在する。もちろん、脚色されない記憶などない。しかし、焼け野原で両親に買い与えられたアイスキャンディーの味も、すりガラスの向こうで着替えるお隣さんのミツヨちゃんのシルエットや息遣いも、「明大前」という場所をくまどる馨しい断片であることをやめようとしない。

 

窪島氏の明大前譚詩は、いよいよキッド・アイラック・アート・ホールの話題へと移ってゆく。

「僕は経営者ではなかったと思うんですよ。キッド・アイラックも、信州の無言館も」

「この歳までああいう仕事を続けてきたわけですから、商才が無かったかと言われれば、まったくそういうわけでもないんでしょうけれど、ただ、どちらかといえば夢想家でしたね。夢想家というのは、営み続けるということ、経営というものを考え続けないんですね。今から振り返ると、経営者としては失格というか、そういうものではなかった。夢想家窪島誠一郎を育てる、いわば、時代状況というものがありましたね。つまり、敗戦で焼け野原になって…」

明大前という胎内で育てられた窪島少年は、いつしか夢想家窪島誠一郎となっていた。(Vol.2へ続く)

#01 プロジェクトのための宣言文<   >#03 館長窪島誠一郎氏インタビューVol.2

presented by 気配屋<終演するモノクロ喜怒哀楽project>チーム

 

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