館長窪島誠一郎氏インタビューVol.2

投稿日:

20160715 R.Yoshino

窪島誠一郎氏プロフィール

1941年東京生まれ。作家、美術評論家。キッド・アイラック・アート・ホール館長、信濃デッサン館および無言館館主。1964年に小劇場の草分けキッド・アイラック・ホールを設立。79年に夭折画家のデッサンを収蔵する信濃デッサン館を、97年に戦没画学生の作品などを収蔵する無言館を設立。『父への手紙』『明大前物語』など、著書多数。

 

前回の記事(「館長窪島誠一郎氏インタビューVol.1」)に続いて、窪島氏のインタビューについて書いていく。

明大前という場所なくして夢想家窪島誠一郎が誕生しなかったのと同様、あの時代でなければやはり夢想家窪島誠一郎は生まれなかったかもしれない。あの時代とはまさしく、東京一面の焼け野原と共にスタートした、あの時代、である。

「高校を出てからは、生地屋さん、印刷会社、喫茶店、と職を転々としていたね。その頃、明大前から渋谷までは井の頭線で20円だったんだけれど、隣の神泉までなら10円だった。だから、神泉から渋谷は歩いて電車代を安く済ませていたんですね。その道中で、村山槐多の画集に出会ったわけです。そのときは、美術は皆目わからない男だったけれども、絵に出会ったというよりは、こういう絵を描いて死んでいくっていう生き方に出会ってしまったんですね。それは、ショックでしたね。それが、芸術っていいなっていう、将来にわたるほんの種火のようなものを、私のなかに燻らせたんですね」

 

夭逝の画家村山槐多は、窪島氏が長年にわたってその姿を追い求めている芸術家の一人である。復興と経済成長の高らかな行進の只中にあった当時の日本において、この若き死は街角の古本屋の段ボール箱の奥に追いやられようとしていた。それを救い出さんとしたのが、夢想家窪島誠一郎であった。

「そういうちいさな火種、芸術っていいな、っていうものを抱えたままに、昭和38年にスナックを開くんですね。ちょうどあと5日で22になる、まだ21でしたけどね。それで、東京オリンピックがやってきて、店の前をエチオピアのアベベが走っていたり。そういった時代のおしよせた波がありましたね。そしてその時に、あの絵がどこか忘れられなかったんですね」

 

開業したスナックには、「塔」という名が与えられた。高度経済成長の波を感じながらも、いや、感じたからこそ、一方であの若き死が相変わらず窪島氏の心を小さく燃やしていたのであろう。

「それで、絵を飾れるようなところがあればいいと思ってね。それから、劇団のかたがよく塔に出入りしていて。稽古場が欲しいと。それならば、展覧会も稽古もできる、そういった多目的な空間を作れないか、と思ったんです」

キッド・アイラック・ホールの誕生である。あの若い死によって灯された窪島氏のなかの小さな炎は、時代の風と若者の息吹を得てだんだんと燃え盛るようになっていった。

「キッド・アイラックは、展覧会で幕を開け、やがてお芝居でも使っていますね。寺山修司の天井桟敷だとか、つかこうへいさんとか、そういう人の貧乏時代につかってもらってましたね。今や東京都内に小劇場やライブハウスは1000とあると思うんですけれど、当時は無かったんです」

「経済は上向いていたと思うんですね。田中角栄が日本列島改造といって、沸き立つ思いでしたよ。正統な道、王道な道は、早稲田とか東大に入ったりする、そういう道でした。私は、幸か不幸か、青い水にチェリー浮かべて300円もらえるんだ、って本能的に知っていたから、王道ではなくて、片隅のそういう道を歩き始めたと思うんですね。そしてそれは、経済だけの問題じゃなかったんですよ。あの当時の若い人のエネルギー、写真やりたい、演劇やりたい、文学やりたい、そういう人たちのエネルギーの向かう先が無い、階段の踊り場状態だったんですよ」

時代の欲望の裂け目から生れ落ちたキッド・アイラック・ホールは、あの小さな空間に到底納まりきらない熱量を湛えるようになっていた。(Vol.3へ続く)

 

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presented by 気配屋<終演するモノクロ喜怒哀楽project>チーム

 

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