館長窪島誠一郎氏インタビューVol.3

投稿日:

20160826 R.Yoshino

「館長窪島誠一郎氏インタビューVol.2」)に続いて、インタビューの様子を記録する。

「坂田明や坂本龍一はうちのアジフライを食べているはずです。水木一郎さんが手伝ってくれたり、松原町の北杜夫先生が来てくれたり。確か16歳くらいの関根恵子さんもお客さんでした。二階では役者の卵が絶叫していて、渡部洪っていう人がやっていた新人劇場っていう劇団は、お客さんもすごかった。三島由紀夫に黒川紀章。そうそうたる面々ですよ。そういう不思議な空間なのだけれど、その不思議さをあの時代の若者は求めていたんでしょうね」

高度経済成長期の東京の“裂け目”のごとく誕生したスナック「塔」とキッド・アイラック・ホールには、様々な分野の表現者が集った。村山槐多が灯した夢想家窪島誠一郎の心の炎は、いつしか若き表現者を呼び寄せる燈火となっていたのである。

「お店って面白いんですよ。壁紙を張ったり、音楽をかけたり、ともかく自分で空間をつくるというのが好きでしたね。それから宣伝。人を集めようっていう宣伝じゃなくて、とにかく自分の好きなことをしていました。それがウキウキするのね。お金を儲けなければ生きていけないんですけれど、かといって利益を出すことが仕事かと言えばそうじゃないんです。良い意味で、コマーシャリズムが介在していなかったんですね」

売ろう、儲けよう、と思うと何かを失ってしまう気がする、と語る窪島氏は、まさしく夢想家そのものである。キッド・アイラックは、お金のための空間ではなく、表現者のための空間であり、もっと言ってしまえば、「そのような空間」のためだけに存在する空間だ。一見すると無為に思える自己言及的な場であるからこそ、様々な葛藤や矛盾を生きる表現者が叫ぶことができた。

「キッド・アイラックが活き活きしていたときは、全然お金が入っていませんよ。文化というものは曖昧模糊としていますけれど、今のようにコマーシャリズムが介入するということは無かったし、純粋に個人が叫びたいと思うものを叫べる、抜きたてのサツマイモのような表現でしたね。そういう沃土の農園が、キッド・アイラック・ホールだったんじゃないですかね」

長野の信濃デッサン館の建設に入ってから、窪島氏は明大前をあけることが多くなった。その数年前から務め始めた南陽子氏をはじめとして、残されたスタッフが運営を担うようになったが、それでも、企画には関わっていたという。

「ホールを使う人々の色彩も、徐々に変わっていきました。最初はお芝居と展覧会、それから、浅川マキや高見沢くんたちミュージシャン。そういうものが渾然一体とした中から、次は舞踏が出てきて、暗黒舞踏っていうのがキッド・アイラックを席巻するようになったんですね。その次に、一人芝居とか朗読とかそういったものに移っていった。ただ、言えるのは、キッド・アイラックが文化の特性を導いたというわけではなくて、ああいうホールがあることによって勝手に世の中の方が変化していったということです」

時代が変われば人が変わり、表現も変わる。外の世界とは切り離された孤島のようなキッド・アイラックにだって、変化は訪れる。窪島氏から南陽子氏へ、そして早川誠司氏へ、炎はリレーされてゆく…。(Vol.4へ続く)

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presented by 気配屋<終演するモノクロ喜怒哀楽project>チーム

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