渡部洪氏インタビューVol.1

投稿日:

20160916 R.Yoshino

渡部洪氏プロフィール

1942年生まれ。1973年に東京初のライブハウス「曼荼羅」を創業、現在も代表を務める。1970年前後、およそ1年に渡ってキッド・アイラック・ホールでの連続演劇公演を主催した。

 

今回会場となったカフェ「ゆりあぺるぺむ」の床は、何十年もワックスをかけ続けたためか、独特の光沢を放っている。キッド・アイラック・ホールが度重なる増改築や移転を繰り返してきたのとは対照的に、ライブハウス「曼荼羅」やカフェ「ゆりあぺるぺむ」は同じ場所で時を重ねていた。歴史の重みというものは、時に人の心を勇気づけ、時に人の目を惑わすが、我々は歴史そのものの目撃者であると同時に、歴史が語られる現場の証言者とならんことを切に望んでいる。窪島誠一郎氏やキッド・アイラック・ホールの歩んだ時代を少なからず共有する渡部洪氏にお話を伺う上で、これ以上うってつけな場所はないだろう。

「一座建立という言葉があるけれど、一期一会の関係で、どれだけお客さんが良いものを見たという気持ちになるか、というのが表現の一番重要な問題だね。場所やお客さんの数、売り上げではなくて、第一に「表現すること」がどういうことか考える。製作も、お金をかけないでシンプルに。そぎ落としてそぎ落として、役者の身体、感性、イマジネーションを内側から発露させていくことが、大きなテーマだったね。そういう意味では、何のコンテクストもないただの箱としてのキッド・アイラックは都合がよかった」

渡部氏が回想する通り、キッド・アイラックはただの「箱」であった。氏の言葉を借りるならば、「思想やポリシーのないレンタルスペース」ということになる。そもそも1970年前後の創業間もないキッド・アイラックは、ほとんど人の入らない貸し画廊に過ぎず、演劇の公演などもちろん行われていなかった。ともすれば街角で錆びゆく運命にあったキッド・アイラック・ホールで、はじめて演劇の公演を行ったのが、当時日活で映画を撮っていた渡部氏であった。

「一年のあいだに計7本、日活の若手俳優を使って連続で演劇をやったね。ちょうど小劇場ブームが始まるころで、僕のところの新人女優や天井桟敷なんかが週刊新潮に「アングラ」として取り上げられた。寺山修司の『書を捨てよ 町へ出よう』が出てきて、若者たちは、家にこもらず外に出て何かを探さなきゃいけない、自分で表現し、声を発さなければいけない、という思いに駆られていたね」

渡部氏が率いた日活の若手俳優たちも、演劇という表現に自らの生を投企していた。儲けは一切気にせず、食事中や休憩中もひたすら演劇のことを考え、およそ二カ月という短いサイクルで稽古と公演を積み重ねていく。キッド・アイラック・ホールという場所で、俳優たちの演技は目に見えて上達し、顔つきも徐々に変わっていった。渡部氏は確かな手ごたえを感じていたという。

「稼ぎのことは考えず、チケットや入場料なんてものは無い。あるのは公演が終わった後の投げ銭だけ。未熟な俳優の親兄弟が来るだけでは発展性が無いから、より多くの人に見てほしかったね。表現を第一にして、儲けは気にしない。公演を重ねるにつれて、一般の客も増えていった」

Vol.2へ続く

#11 「キッドプロジェクト」はキッドの外へ―Hors-d’œuvre< >#13 渡部洪氏インタビューVol.2

 

presented by 気配屋<終演するモノクロ喜怒哀楽project>チーム

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