渡部洪氏インタビューVol.2

投稿日:

20160923 R.Yoshino

渡部洪氏プロフィール

1942年生まれ。1973年に東京初のライブハウス「曼荼羅」を創業、現在も代表を務める。1970年前後、およそ1年に渡ってキッド・アイラック・ホールでの連続演劇公演を主催した。

 

渡部洪氏インタビューVo.1より続く)

渡部氏がキッド・アイラック・ホールで連続公演を行った1年のあいだ、渡部氏にとっての窪島氏はレンタルスペースのオーナーに過ぎなかったが、窪島氏にとっての渡部氏はそれ以上の存在だったのかもしれない。自身のエッセイ等でもしばしば言及するように、窪島氏は演劇や芸術に対する憧れやコンプレックスがあるようで、生活をなげうってでも自らの表現を追い求める渡部氏や俳優たちの存在は、窪島氏のそうした複雑な感情を掻き立てるものだったのだろう。スナック「塔」のシェフが逃げ出したとき、窪島氏は渡部氏に助けを求めたそうだし、三島由紀夫の割腹自殺が報じられたときは、そのショックをまっさきに電話で共有したという。しかし、こうした関係は長続きしなかった。窪島氏は、夢想家ではなく経営者として生きねばならなかったのである。

「俳優たちは演劇の野心に燃えて、アルバイトをしながらぎりぎりの生活をしているというのに、むこうは「公演の客から料理かドリンクの注文を取ってくれないか」と言うんだね。確かに、2階(ホール)はいっぱいだったのに、1階(スナック「塔」)はガラガラ、という状態だった。それでもその提案は、投げ銭にこだわって公演を続けてきた我々を侮辱している。我々が集めた客から、あたかも我々が強制したかのようにお金をとるというのは、なんとも不本意なことだったね」

この出来事が決定的な決裂点であった。以来、渡部氏はキッド・アイラック・ホールを利用していないし、窪島氏とも1回しか会っていないという。渡部氏にとっての窪島氏はやはり「箱」の経営者であり、その「箱」も、渡部氏にとっては1年間のあいだ駆け抜けた場所に過ぎなかったのだ。キッド・アイラックでやるべきことはやりきったという思いもあり、渡部氏は次なる表現を求めて路上演劇や共同生活といった演劇的実験へと活動の場を移していった。ちょうど、寺山修司や唐十郎が大きな注目を集めつつあった、そういう時期である。

「今俳優が生きている。他の人もいる中で、僕は生きている。道を歩きながら集中して、演じることで、日常と非日常の境界をゆさぶっていく。極端まで問い続ける必要は無いけれども、そういう中から、自分は何をしたいのか、という欲求が出てきたね」

おそらくこれは、窪島氏が憧れ続けた生き方のひとつのあり方を象徴している。しかし窪島氏が選んだのはあくまでも経営者としての道だった。

列島改造論と高度経済成長の時代、満員電車に乗って働くかそうではないか、あるいは、ネクタイつけるかつけないか、といった価値観のゆらぎの中で、行き場のないエネルギーや不安感が滞留していた東京。渡部氏の語りからは、そうした特異な時代・場所のなかで、渡部氏と窪島氏を含む若者たちがそれぞれの「答え」を出そうと奮闘する様子が浮かんでくる。歴史の重みがあるとすれば、それは、歴史そのものにあるのではなく、こうした語りのうちにある。敗戦以来の激動の70余年を目の当たりにして来た渡部氏にとって、キッド・アイラックでの1年は、ほんとうに「通過した」と呼べるような1年だったであろう。それでも、「記憶からも忘却からも不可避的に逃れ出る存在」として、渡部氏の語りが我々の前で言葉として現前したということを、我々はここに証言するものである。

 

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presented by 気配屋<終演するモノクロ喜怒哀楽project>チーム

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