#14 渡部洪氏インタビュー付論

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20160930 S. Kawano

 彼の顔を思い出せない。彼の声が思い出せない。名前はどうやら覚えている。渡部洪。あの喫茶店のことも思い出せる。肩に吹きつける冷房、舌を焼くコーヒー、吸い殻の積もった灰皿。渡部氏のたずさえた煙草は静かに燃えて、彼の手の甲に灰をこぼそうとしていた。それを見て、話は佳境だと悟ったのを覚えている。話がとぎれて初めて、彼は思い出したように煙草を灰皿に押し付けた。

数日後に窪島氏に会った。今まで何度も会っているから、彼の顔はさすがに覚えている。雨の日の京王線新宿行き。あなたに都合の悪い話をたくさん聞いてきましたよ、と私は彼に言った。あいつはマゾ気質だという渡部氏の発言を思い出して苦い気分になったが、それでも矢継ぎ早に言い募った。彼から、あなたの言い分と矛盾するような物語をたくさん聞きましたよ。でも私はなにかひとつの過去を求めているわけではない。あなたと渡部さんの語りの正否に興味はないし、正否があるとも思わないし、そもそも本当のところは矛盾すらしていないと思う。

キッドの終わりを研究することと、キッドの歴史を研究することは、両立しない。

この対立は、文献学におけるある問題に類比可能である。文献学は往々にして、テクストの原典の逸失と、残された複数の写本のテクストの内容の矛盾に直面する。実証主義的な文献学の方法論たるラッハマン原則は、現存するテクストから原典の蓋然的なテクストを推定する手続きを確立した。実証主義批判はこれを難じる。 現存しないテクストの蓋然的な再構築の正当性は疑わしく、むしろ残された相異なる写本の体系は、それ自体で固有の価値を有するのだ、と。

キッド・プロジェクトにおいて、これを変奏させてみたい。オリジナルの過去を推定どころか、措定もしない方法論を導入してみたい。過去の措定など戯けた言い回しだとそしられるかもしれないが、過去は敢えて措定しなければ存在しないとすら言ってみたい。人間が必要としている過去への一定の共通了解は、円滑な日常生活を担保するための便宜的な手段に過ぎない。その措定を必要しない新たな研究の手続きを、私は夢想している。

「窪島さんの『明大前物語』には、渡部さんがアジフライの代金を支払わなかったから二人は決裂したのだと書かれていましたよ」

記憶が正しければ、私は固唾をのんで、渡部氏にそう言ったのである。それを聞いて、渡部氏は、笑止千万だ、とゆっくりと答えた。それはあまりに問題が矮小化されている、男二人が喧嘩をするんだからそこにはもっと根本的な問題がある、と渡部氏は続けた。私はその代金というのがアジフライのだったか焼きうどんのだったか思い出しあぐねながら、手許の手帳に「笑止千万」と書きつけた。

つまり、渡部氏が言うには、問題はアジフライ程度のものではなかったのである。渡部氏が当時率いていた劇団は、表現の追究を徹底するために、チケット制ではなく投げ銭(カンパ)制をとりながらも、「塔」の2階に客を着実に集めていた。それにも拘らず、「塔」のオーナーたる窪島氏は、彼にワンオーダー制を持ちかけたのだという。つまり、客にチケットを売りつけるのではなくカンパでやっていこうとする劇団の自恃を不意にする形で、窪島氏は一儲けを図ろうとした。渡部氏は「自分たちの理念はまったく理解されなかった」と弁じ、窪島氏を一分も擁護することはなかった。

翻って窪島氏の方は、表現に対する自身のコンプレックスを物語るために、著書においてこの決裂を引き合いに出したのだった。金銭を顧みずに表現に打ち込む渡部氏と、渡部氏から金を取るしかない窪島氏はすれ違う。窪島氏はこういった劣等感を吐露したいわけだから、渡部氏の食うアジフライでも、渡部氏の客から取るワンオーダーでも良かったのである。いずれにせよ、表現の営みから金をとることに窪島氏が苦しんだことに変わりはない。

ここでひとつの、まだ脆弱かもしれない仮説を提示しておこう。まず初めに、あらゆる潜在性をそなえた世界から、言語による著述の可能な論理空間を切り出してみる。それからその論理空間に、キッド・アイラック・アート・ホールというトポスを、語りの対象として設える。この対象をまなざす複数の定点が対象のまわりに遍在し、対象に向けて朧げな光をさし向けようとしている。この空間は時間軸を有さず、キッド・アイラックという対象も時間性から解放されている。刻一刻と想起される記憶そのものが現在的に立ち上がり、語ることで語られなかった空間を画定していく。この空間において矛盾する語りは淘汰されるどころか、その光源の複数性こそが、語られえぬ暗がりを少しでも狭くすることに寄与している。たとえ語り手の記憶が時間的感覚に依拠していたところで、その記憶を立ち上げる瞬間に、記憶は現在的な知覚になりかわり、キッド・アイラックの終演を照らし出す灯火となる。

この語りの空間を一定の過去という共通了解に収束させようとすることに、私は強く反対する。語りはもとより語られなかったものを捨象する点で暴力的であることは言を俟たない。 従って我々は語られなかった言語の存在を無視してはならず、ましてやっと語られた言語を、唯一の過去を措定するという理由で選別するわけにはいかない。過去、歴史、ひいては時間といった便宜的な指標を、我々はとりたてて讃えも貶しもしないが、不要にそれに囚われることを好まない。

あの日のあの夜の渡部氏の煙草の燃え具合を、私の他に覚えている者があるだろうか。今にも灰がこぼれそうだったんだよ、と私がだれかに語ったらば、いやそんなのは出鱈目だとあの日のだれかは反論するだろうか。反論されたら面白いだろうと思う。相矛盾するふたりの渡部氏が、そこにぽっかりと浮かびあがって煙草を吸っている。

#13 渡部洪氏インタビューVol.2< >#15 橋本さんインタビューVol.1

presented by 気配屋<終演するモノクロ喜怒哀楽project>チーム

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