三題噺 #004

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20160724 S. KAWANO

光ではなく影を写生せよと、耳許で蜜のような匂やかな声が囁いている。黒い紙に白墨で影を写し取りなさい。

影をもとめて息絶えたような時間に抜き足差し足で忍び込む。擦り切れた芝生に胡座をかいて我慢強く待っていると、暗がりが切り抜かれるようにして黒装束の幼子がつと現れ、糸のような手持ち花火からまばゆく光を滴下する。

声に言われるがままに、黒い紙に白墨で描く。黒い影を白い墨で描く。浮かび上がる図像はモノクロームのネガよろしく倒錯する。白々と塗りこめられた画面に塗りのこされた黒い閃光が散り、うっすらと照らされた幼子の相貌は花火より明るく夜闇より暗い。

日が昇るのにあわせて幼子は光に溶けながら姿を消し、あとには玩具のびいどろが残されている。曙光はびいどろの中に柔らかに差し込んで埃っぽい地面にまだらの影を投射する。光ではなく影を写生せよ。声はますます甘美に命令する。漆黒の日差しを白墨の影がふちどり、陥没した図像が黒い画用紙の裏側に立ち上がる。

太陽は揺らぎない光を落としながら高度をあげ、地面に染みついていた影は次々に干上がってゆく。見渡すと平坦な芝生は光を幾重にも反射するばかりで写生の対象物がない。影を写生せよ、影を――。

明々としてぼやける単調な風景の先に樹木がひとすじ伸びて、黄金色の果実をつけている。歩みよって左手で捥ぎ取り、眺めると、握った掌と果実とのあいだに濃厚な影が挟まっている。すかさず白墨で黒い紙に影を彫り込む。紙の向こうをえぐるように白墨を動かして、光をあびて黒々とする左手と檸檬に息吹を与える。

丹念な描写に徹するうちに短い眩暈をおぼえ、思わず目を閉じると自分の絵の中に墜落している。従前とはあべこべに、自分の掌と握りしめた檸檬が暗く、挟み込まれた影の方が白く発光し、自分はそれを黒い炭で白紙に写しとっている。翻って眼前の景色は奥行きを欠いて明度の反転した風景画になり、自分の描く左手だけが丸みをおびて動き始め、檸檬を投げたり取ったりして弄ぶ。

ひときわ高く投げあげられて、檸檬は高みで火の粉を吹いた。火の粉はのっぺりとした黒い空に、薄っぺらの地面に、描くのを止めた自分の右手に、ぽつりぽつりと空白の孔を空ける。景色に無数の灼熱する孔が散らばり、それらは虫喰いのように拡がって視界を侵し、しまいには全てが乾いた落ち葉のように燃え盛る。自分の姿も一様に失われてゆくが、描かれた左手だけは――いやよく見れば今やあちらが右手であり、それはこちらに手を振りながらスケッチブックの奥へと密やかに姿を消す。匂やかな、勝ち誇ったような笑い声がその向こう側から漏れだしている。

影 – N
レモン – Y
DIMENSIONALIZE – X

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