三題噺 #005

投稿日:

20160807 S. Kawano

奇妙なことだけれども、この晩わたしは何をも見なかったということを、まずは明言しておかねばならない。さもなくば、ある晩についてわたしが何か記すとき、わたしは何かしらを見たのだとほぼ間違いなく思われてしまうだろうから。

イタリアン・レストランでのバイトからなんとはなしに身を引いてから半年ほど経ったころ、長い夏期休暇が始まった。わたしがバイトをやめたところであのレストランの食器は今日も真っ白に輝き、テーブルクロスの皺はぴんと伸ばされ、にんにくの匂いのするスパゲティは湯気を上げているに違いなかった。何も言わずにフェード・アウトしたのでしばらくは店長からの電話が絶えなかったが、一度も相手にしなかった。バイトをやめると暇になった。そもそも暇だからバイトをしていたのだ。

その晩も日が暮れると電気を消してそそくさとベッドに入った。鉄筋コンクリートのワンルーム・マンションは西日から受け取った熱をしつこく蓄えており、冷房の効きもやけに悪かった。暗闇のなか大の字に伸びて目をつむっていたが、半端な微睡みが寄せてはきても、寝付くことはできなかった。

暑いから寝付けないのかと思っていたが、どうもそうではないような気がした。しばし考えていると、床が水平を失って傾斜していることに気付いた。頭部が下がり、足の方が上がっているので落ち着いていられないのだった。この不安定な感覚には身に覚えがあった。一年前の訪問者のことを思い出して、にわかに胸が高鳴った。

そして下腹に懐かしい重みを感じた。薄いTシャツ越しにひやりとした鱗が触れていた。わたしはおずおずと手を差し伸べてその滑らかで硬い体躯を撫でた。冷たい体表が指先に吸いつくのが心地良かった。カメレオンが何色をしているのか思いをはせてみたが想像がつかなかった。こんなに冷え冷えとしているのだから青とか白かもしれないが、そもそもカメレオンは冷血動物である。

指先でカメレオンの形を確かめていると、カメレオンが薄いボール紙の箱を口に咥えていることが分かった。それを受け取って、開け口をさぐりあてて中身を手に取ると、それは粉の入ったビニル袋だった。わたしはこの不遜な爬虫類がホットケーキを好んで食べたことを思い出した。「食べるの?」と尋ねると、カメレオンは首を曲げて頷いた。

布団から這い出ると、あの時と同じように床は砂地に変化していて波打っている。曲がった壁に指を這わせても電灯のスイッチは見つからない。「まるっきり前と同じじゃあ面白くないだろう」とカメレオンは言った。光のないまま料理をせねばならぬらしい。仕方がないのでわたしは温い砂をかきわけるようにして四つん這いになって進んだ。右手はナマズのひげみたいにくゆらせて障害物を避けるのに使った。カメレオンはわたしの背中に乗って従いてきた。途中まで高みの見物をしていたくせに、道半ばで杖のようなものをわたしに手渡した。「これがあれば立って歩けるだろう、毒だか薬だか知らんがね」とカメレオンは愉快そうに言い添えた。杖を持って立って歩くと躓くことはなかったが、上からぶら下がっていた何かに額をしたたかに打ちつけた。カメレオンはわたしの肩の上で四本の脚を踏ん張ったままくすくす笑った。

記憶が正しければ、そしてこの部屋が去年と同じようにレイアウトされているならば、キッチンは部屋の中央にあるはずだった。ひとたび辿り着いてしまえば、卵を割るのも牛乳を注ぐのも大して難しくなかった。普段に比べたら生地を作るのに多少時間がかかったかもしれないが、全ての動作が一様に緩慢になるとしたら、むしろ時間の刻み方のほうを変えるべきではないかと思った。火が通ったホットケーキの表面に穴が空くのが見えなくても、香ばしい匂いがたつのは簡単に分かった。左手にフライパンを、右手にフライ返しを握りしめて、一気に反転させた。好物を前にしたカメレオンは皮肉を言うのも忘れて嬉しそうに「お見事」と言った。カメレオンは溌剌としたオレンジ色をしているのではないかとわたしは憶測した。

皿に何枚かのホットケーキを積み上げてバターを塗り、メープルシロップを浴びせるようにかけた。「ナイフとフォークはご入用かなーー」とカメレオンが言いかけたが、「その手には乗らないから」とわたしはシロップを吸って柔らかくなったホットケーキに直接指をつけた。指先でホットケーキをちぎるとねっとりとして温かな蜜が指にからみ、自分の指に吸いついて蜜を舐めると、指しゃぶりのやめられない子どもに戻ってしまったような気分になった。

水道の蛇口からコップに水を満たして飲むと、ワインの味がしたので噎せかえった。「水がワインになってるじゃない」とわたしが非難するように言うと、「それが水なんだよ」とカメレオンは楽しそうに答えた。暑かった上に調理もしたので喉が渇いていた。仕方がないのでコップの中身を全部飲むと当然ながら酩酊した。「赤ワインだと思う、白ワインだと思う」とカメレオンは尋ねた。渋味が強かったので迷いなく「赤ワイン」と答えた。「それが水なんだよ」とカメレオンがまた言うので、いよいよわけがわからなくなってしまった。

(続)

体温 – N
標識 – Y
TRANSPIRE – X

PREVIOUS / NEXT
SANDAI TOP / KEHAI-YA TOP

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です