三題噺 #006

投稿日:

20160814 S. Kawano

承前

赤ワインの味のする水を立て続けに数杯飲んだあと蛇口を閉じようとすると、捻っても捻っても止まらない。水栓が壊れてしまったのか、ものすごい水圧で赤ワインがーーカメレオンに言わせれば水がーー吹き出してきた。カメレオンはやはり落ち着き払っていた。瞬く間にシンクが溢れ、足許が濡れ始めた。「わたし泳げないんだけど」と抗議すると、「それなら尚更良いね」とカメレオンは含み笑いをした。カメレオンの声は滑らかに移動しているように聞こえた。多分カメレオンはもう水流を味方につけて動き回っているのだ。

水面は勢いよくせり上がり、停電と洪水が同時に起こった都心の地下鉄に閉じ込められたような気分になった。胸元に水位が達しても収束する気配がないので、「お願いだから止めて」と懇願した。「怖いのは最初だけさ」とカメレオンは答えたが、そう言われても怖いものは怖かった。わたしは来るべき時に備えて胸にいっぱいに空気を溜めた。水深はまもなくわたしの身長を越えて、爪先立ちをした身体は否応なく床を離れて不安定に揺らぎ、まもなく水面に顔を出せなくなった。足掻いていると余計に苦しくなることが分かり、力を抜くと、そのうちわたしの身体は天井付近に押し付けられるようにして浮遊し始めた。その時には恐らく、部屋の中はもう完全に液体で満ちていた。空気を逃がすまい唇を噛んでも、隙間から震えるように泡がこぼれだした。

「息を止めてはいけない」とカメレオンは言った。冗談じゃないと思った。水中なのにカメレオンの言うことが分かるのを不思議に思う余裕はなかった。なぜだかカメレオンがこちらに接近してきていることがはっきりと分かった。カメレオンは躊躇なくわたしの胸部に体当たりした。その衝撃でなけなしの空気は肺から押し出され、そしてわたしは赤ワインの味のする水を口と鼻から大量に吸い込んだ。粘膜がアルコールの刺激を受けて切れるように痛み、気管は液体を押し戻そうと激しく痙攣した。

「息を止めてはいけない」とカメレオンは再び言った。わたしはどうしようもなく、今度は液体をおのずから思い切り吸い込んだ。するとどうしてか、確かにわたしは液体を吸い込んでいるのに、肺か何かが酸素を身体に取り込み始めたのだった。わたしは信じられない思いで再び液体を吸入した。痺れかけていた指先に感覚が戻るのが分かった。その指先にカメレオンの尻尾か何かが絡んだ。「僕だってエラがあるわけじゃあないんだよ」。

わたしは窓から曙光が差しているのを察知した。何にも焦点は合わなかったけれども視界が照らし出されて、あたりは真っ赤な光に満ちていた。わたしは夢中で赤い海を動き回った。重力から解放された手脚がなに不自由なく液体を掻いた。わたしは生まれて初めて泳いでいるのだった。

「夢みたいーー」思わずそう言った途端、わたしはベッドの上に叩きつけられた。

「言ったじゃないか、たとえ幾度眠っても慣れてはいけないって」不機嫌そうな声がした。わたしは目を固く閉じたまま、ベッドの上で咳き込んでいた。口許を覆った手のひらには肺病患者のように赤い斑点が散っているのではないかと思った。今となってはむしろ空気の方が気管の粘膜を刺激した。「それは始めから無理な注文だったのでしょう」とわたしは咳の合間に恨み言を言った。「でもその注文のおかげで君もちょっとは分かってきたわけだ」とカメレオンは言い、それから「大丈夫、少なくとも僕は死んだりしない」と言い残して静かに気配を消した。

波打ち際 – N
東 – Y
DESIRE –  X

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