村上龍『すべての男は消耗品である』

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村上龍は天才だ。だが天才がつねに非凡であるとは限らない。天才は天才としてどうしようもない凡庸さを露呈してしまう瞬間というものが存在する。本書『すべての男は消耗品である』がそれである。

 

たとえば、それこそ「才能」について。よせばいいのに、世の中は才能だ、と村上は口を滑らせる。だが、天才が、世の中は才能だ、と言ってしまうこと以上の凡庸さがあるだろうか。そこで使われる語「才能」の定義が努力の反対、つまり絶望的なまでに平凡な定義であるのだとすれば。

 

主に性愛とそれを駆動する欲望を軸に展開されるエッセイである本書は、各断章ごとに随分と真面目に、性愛とは何か、欲望とは何かを考察しようとする。しかし実のところ、開陳される彼の思考は、実は性愛や欲望の本質に関する思索ではない。性愛や欲望に関する与太話だ。思索ではなく与太話であるとはどういうことか。それはすなわち、ある問いを巡って、思索が始まる前に答えがあらかじめ与えられている、ということだ。先にある答えをもとに様々な事象を語って見せるとき、それは思索ではなく与太話となる。

はっきり言おう。これほど執拗に欲望について語りながら、村上龍は欲望とは何かをまったく突き詰めて考えていない。なぜなら、人間の、いや、男の欲望とは何か、という’’問い’’に対して、より多くの女と寝ること、という ‘’答え’’を、かなり平板に、アプリオリに設定してしまっているからである。人間の欲望とは何かという問いにはそれこそ人類史と同じだけの実践の積み重ねがある。諸学がそれぞれの専門性に基づいて知見を積み重ね、また断言の形で答えを与えることの不可能性への認識をも積み重ねている。そういう先人たちの思索や研究への畏れのようなものを何一つ抱かぬまま、素人まるだしで、この身もふたもない、しかも現在からみれば相当に古臭い性道徳を普遍視してしまう。ほとんど身体的に刷り込まれた規範の反射的な表れのような身振りで、欲望という超越項を外部から独断的に設定してしまうのである。そして、よせばいいのに、そのように設定された欲望という超越項によって、たとえば「戦争はセックスに満足していれば起きない」とか、「男の犯罪と芸術はすべて勃起をおさめるために発生する」といった、因果推論も個人と社会の弁別も何もかもが欠けた、しかもどこかで聞いたような議論を、付け焼刃の知識で展開する。要するに、下手くそなのだ。現代的な基準からみてポリティカルコレクトネスを欠いた発言が問題なのではない。むしろ、問題は、そのどうしようもない下手くそさにある。

そしてそのことに本人ももちろん気づいている。「オレはエッセイは下手だ」と自分で言っているし、「頭が混乱してきた」「バカバカしくなってきた」としょっちゅう毒づく。思索できないことに苛立ち、疲れる。それでもなぜか執拗に、思索しようとする。与太話でしかないのに、あくまで思索しようとするのだ。そのようにして出てくる本書の核心は、制度/生命力という主題だろう。

 

“制度は強力だ。この世の中の、ほとんど百パーセントのことがらが、制度を支える装置としてある”

“純文学とは、制度と生命力の抗争を扱うジャンルなのだ”

 

ここには村上のかなり正直な哲学が出ていると思う。だが、それは天才・村上龍にして、ひどく凡庸な哲学だ。初期のデビュー作からその後の創作および実人生を通じて、村上龍の生きざまを制度に対するアナーキーだと思わない人間はいないだろう。それが、天才がエッセイの中で実に真剣に考察を展開した結果、わざわざ「純文学とは、制度と生命力の抗争を扱うジャンルなのだ」などと真面目腐って言ってしまうのである。ここに凡庸さそのものがある。

この凡庸さはひとつの効率性の要請でもある。すなわち、このように粗雑に「制度」を立てることによって、いとも簡単にその外部に出ることができる。彼のいうように「世の中の、ほとんど百パーセント」を覆うから、その残余としての「生命力」を見つけるのはいともたやすい。だが、こういう凡庸で単純な操作の果てに、制度/その外部という差異そのものを構成するものがなんであるのかに対する思索は完全に欠落してしまう。より事例に即して言えば、けっきょく、「普遍的な男の欲望」という超越項を外部に設定しているから、結婚/婚外の不特定多数の性愛、という形で制度/制度の外部の切り分けを迷わず安全に行うことができる。だから村上龍は、彼が設定する制度の外部もまた、実は制度によって作られているという可能性に気づくことができない。彼の設定する「普遍的な男の欲望」が何ら普遍的なものではなく、制度の効果として在るという可能性に気づくことができないのだ。

奇しくも本書の初刊の発行は1987年。ウーマンリブやフェミニズムの勃興が少しずつジェンダー観を揺り動かし、労働の領域においては男女雇用機会均等法が制定されて、その現実的帰結はともかく象徴的な効果を一定程度持った。消費社会の到来が家父長制的な規範を内部から少しずつ掘り崩してもいた。以後、少しずつだが、男性は強い父、強い男であることの重みから解放され、女性は男性と等しい欲望の主体へと昇り詰めていくだろう。そのような性や欲望をめぐる社会の巨大な地殻変動にもかかわらず、というよりも、その変動を直感的に感じ取っているからこそ、村上龍はしかし「普遍的な男の欲望」を強引に設定することで居直る。――その「普遍的な男の欲望」とは廃れつつある欲望の規範であり、そしてそれは制度に抗する生命力などでは決してなく、制度の効果として現れる欲望の一形態であった。村上はしたがって、制度の外部に出たつもりになって、実は「制度/生命力」の空間の外部には出ることができない。彼の身体に書き込まれた規範を覆すことには彼の天才は役立たないのだ。

だからといって彼が天才でないわけではない。この制度/生命力の空間の内部で、彼の天才は、天才的な与太話として去来する。次から次へとエピソードを繰り出し、推論がうまくいかなければ、混乱してきた、などと悪びれずに言ってのけることで混乱すら語りのドライブへと変換してしまう。それでもその天才的な語りは欲望というアプリオリな答えを有しているせいで与太話の域を出ず、何度でも行き詰る。そして何より、この空間自体が社会の変動とともに壊れつつあるにもかかわらず、そこに幽閉されつづけることによって、村上龍はどこまでも疲弊していく。すべての男は消耗品である、とは、そういうことだ。彼は彼の設定した欲望に忠実であろうと努力することによって、どこまでも疲弊していくのである。

だから本書を今読むのはとても難しい。2016年を生きる私たちは幸い、この欲望の空間の外部にわりとあっさりと出ることができる。そのように外部から眺めれば、すべてを手にし、時代の寵児であった作家・村上龍が、じつは冴えないおっさんにすぎず、消耗品であることの疲労にのたうち回っているのを高みから見物することができる。だが、私たちはそのように外部を安易にとることが、一段上の内部へと幽閉されることであることもまた知っている。だから私たちがすべきなのは、彼が30年前にしたように私たちなりの欲望の空間をアプリオリに設定するのではなく、のたうち回る男の悲哀と疲労にしばしつきあってみることなのかもしれない。本書を今読むことの価値があるとすれば、きっとそこだろう。

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