林京子「ギヤマンビードロ」『祭りの場/ギヤマンビードロ』講談社文芸文庫、1988年

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“「人間の体は、よう出来とるね」と大木が言った。四、五年前に大木の背中からも一個、ガラスが出てきた。医師に、切開をして出してもらうと、真綿のような脂肪の固まりが出てきた。四、五耗の、小さいガラス片は脂肪の核になって、まるく、真綿のように包み込まれていた、という。”

「アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮だ」というアドルノの言は、戦後の言論界において、人間世界の枠を完全に破壊し尽くしてしまうカタストロフを前に、人間がそれをどのように受け止め表象するのか、という問いをめぐって、つねに避けて通れない参照項でありつづけてきた。けれどもこの言にも拘らず、それでも必死に言葉を紡いだ作家たちのことを、私たちは知っている。同時に、この言にも拘らず世界はその後も続き、アドルノがあれほど嫌った消費社会こそが私たちの生まれ故郷なのだということもまた、私たちは知っている。すべての詩的言語の到達を拒むカタストロフの絶対化と、すべての記憶を阻むカタストロフの忘却の間に、私たちの生はのっぺりと広がっている。林京子の書くものは、そういう私たちの生の前に差し出される、最良の証言のひとつだろう。

林京子は14歳のとき、生まれ育った上海を引き上げて長崎に出て、そこで被爆した。高等女学校三年の林は、まだそのとき作家・林京子ではない。カタストロフを前にして、口をつぐむのでもなく書き続けるのでもなく、カタストロフを通して、一人の少女が筆を手に取り、作家になる。そこではカタストロフ以後に詩を書くこと野蛮かどうかなどという問いは意味を持たない。林にとって書くことは「八月九日」との格闘を生きることそのものになるのだ。

この連作短編では「大木」「西田」「中田」「田口」など、高等女学校時代の同級生が苗字で登場する。14歳の少女だった頃、彼女たちはやはり苗字で呼び合っていたのだろうか。長じてそれぞれが就職や結婚・出産をし、それぞれの道を歩きつつも、会えばやはり「八月九日」に連れ戻されてしまう。「八月九日」に生きたその内容も異なり、決して共有しえない。その日死んだ者、戦後死んでいった者も多い。家族を亡くしたものも、亡くさなかったものもいる。被爆者は決して唯一の被爆者でありえない。苗字で呼び合う彼女たちは、女学校に由来する親しさの反映のようでもあり、「八月九日」以後を共に生きてきた連帯に由来するようでもあり、しかしまた、根源的には経験を分かち合うことができないゆえに残ってしまうよそよそしさのようでもある。

大木の体から出てくるガラス片は「八月九日」のものだ。30年経てなお何かの拍子に出てくるそれは、30年経てなお彼女たちの生を八月九日が規定しているということのこれ以上ない謂いである。だが同時に、そのガラス片は脂肪に覆われている。30年かけて、ガラス片は体内で受容と抵抗を繰り返され、そうしてあるとき偶然吐き出された。それは彼女たちの生きた30年間の凄みそのものと言っていい。そういう営みは「身体」という小洒落た言葉で軽々しく形容することを拒む、もっと生々しい何か、しかたなく「肉体」と呼んでみるほかない何ものかである。

林京子は被爆時、奇跡的に外傷を免れた。だから彼女の背にガラス片はない。けれども、大木の背中がガラス片を吐き出したのと同じように、林は言葉を吐き出した。林京子によって紡がれるそれらの言葉は、林とその同級生のあいだの連帯と孤独を淡々と埋める。林やその他無数の被爆者の生き死にと、それを読む私たちの間に広がる距離の上にも淡々と積もる。

私たちは「八月九日」を知らない。それを自分のものとして語り、それを道徳的訓戒として利用することはできない。けれども、林京子を読むとき、そこに在った生と死に思いをはせることはできる。林京子の文章はだから、私たちを刺すガラス片であり、しかしガラス片を包む脂肪でもある。それは「肉体」である。

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