On Ubiquitous Site #2

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20170909 S.Kawano

 しばらく前に、突如として祖母が失踪した。決して探さないでください、とお決まりの文句が、黒々とつやめく墨書きで、のこされていた。年季のはいった、堂々たる文字だった。探さないでと書いてあるのだから探すわけにはいかず、捜索願も、出さなかった。母と祖母とわたしたちの四人で住んでいた家が、すこしだけがらんとなったけれども、変ったことといえば、それだけだった。彼女はまだそのあたりにいるような気もするし、もともとたいして人らしい存在感がなかったような気もする。
 祖母の生は、自由気儘だった。母が大人になるやならぬのうちに弁当屋のことは彼女にぜんぶ任せきりにして、自分は舞踊に傾倒した。きっと幼いころから厳しく打ちこんできた踊りの悦楽を、その豊饒なからだが忘れられなかったのである。ほとんどといっていいほど家庭を顧みないひとで、母の世話もわたしたちの世話もたいしてしなかった。ただ踊りの教えを請えば、なぞかけのような意味の分からない忠言を、ひとつふたつ与えてくれはした。ひどく奔放なひとであったので皆に愛されているとは言い難かったが、人並みはずれて舞踊に優れていたので、あるていど敬われてはいた。
 彼女がひっそりとすがたを消したことは、彼女の人生の幕の下ろしかたとして至極当然であるように思われて、悲しんだり取り乱したりするものは、いなかった。ただ、その迫力にみちた舞が二度と見られないという点にかんしては、ひとびとに大いに惜しまれた。たぶん那岐の山の木立のなかで、仙人のように暮らしながら、だれに見せるでもなく踊り続けているのだろうと、ひとびとは噂した。案外そのとおりかもしれないと、わたしたちは思っていた。
 祖母との思い出は少ないけれども、昔語りを聞かされたことだけは、忘れえない。母に言いつけられて、畳の匂いがむっと満ちた祖母の寝室に茶を運びに行ったとき、脈絡もなく祖母は昔語りをはじめたのである。
 それは土地に伝わる、他愛のない巨人伝説であったが、わたしたちはたちまち巨人の虜になってしまった。伝承によれば、巨人は、妻のほかに別の姫にも愛されて、嫉妬のために殺されてしまったらしい。
「わたしたちも、さよ姫になりたかった」とわたしたちは祖母に言った。その、嫉妬にくるった別の姫というのが、さよ姫という名前なのだった。「さよ姫は、巨人を殺してしまうのよ。あんたたちは殺したいのかい」と、祖母はあっけらかんと尋ねた。「わたしたちだったら、殺したりしない。みんなで仲よく暮らすのよ」とわたしたちが反論すると、祖母はうすい唇で、ふっとわらい、「逆回し、逆回し」と愉しげにつぶやいた。もしかするとこの昔語りも、ある種の忠言であったのかもしれない。
 巨人の右手を見るようになったのは、そのころからである。尤も、幼いころに見た右手は、雪のように白く、つるりとして、傷はひとつも無かった。わたしたちは子どもらしい根源的な不安に駆られると、いつもその右手の手指に自分たちの腕をからめて抱きしめていた。当時は巨人の指とわたしたちの腕は同じくらいの太さで、まるでいくつにも殖えた相似形の自分たちと抱きしめあっているような心持だった。今となってはわたしたちの二の腕にも肉がついて、巨人の指よりはふくよかである。
 あのころのわたしたちは、四つの足をふみならし、見よう見まねで、よく踊っていた。そうそう、足のうらはとてもかんじんだよ、と祖母がわたしたちを見ながらぼそりとつぶやいたので、わたしたちは得意になってもっとはげしく踊った。踊っているとからだは伸びあがり、いつのまにか古い家屋からはみだして、野を駆け、田畑をころがり、ちりぢりになったりまたあつまったりしながら、頬を真っ赤にそめ、あらい息をつき、もう前後不覚としかいいようのない様相で、我を忘れて旋回しつづけていた。それでも記憶がただしければ、わたしたちの町をみまもるあの那岐の山にまで達したことは、なかったように思う。いくら溌溂としてはいても、まだちいさなわたしたちの手足は未発達で、そこまで駆けることはできなかったのだ。いまでもわたしたちは山を遠くからながめることしかできない。そのてっぺんに腰かける巨人を幻視しては、溜息をつくことしかできない。

 日曜日には、弁当屋を閉める。弁当屋を閉めて、となりまちのシネマまで出かけて映画を見ることが多いが、その日は天気が良かったので、建築士を誘い、菩提寺に出かけた。休日なのに弁当を作るのも面白みがないので、まったくなにも持たない手ぶらのままで、わたしたちは軽自動車に乗りこんだ。くねった細い道をしばらくのぼると、視界がひらける。ひらけた先には巨木がそびえていて、これが、菩提寺の有名な大イチョウである。あまりに巨大なので、遠くから見ると細部が分からず、近くに寄ると、幹の巨大なこぶしか目に入らない。
 わたしたちは車を降りて、イチョウの幹の周りを歩いた。わたしたちが手と手をとりあってゆっくり一周するあいだに、建築士は二周歩いた。それからそろって寺に参拝して、イチョウの下に戻り、柔らかい黒土のうえに腰を下ろした。
「最近の仕事はことさらつまらなくってさ。だれもかれもが下らない小屋を建てろと僕に依頼する。本当に嫌な世の中だね」と、建築士は土をいじりながらため息を吐いた。
「弁当屋の注文だって、どれもこれも同じ、だれもかれもが下らないものを食べたがる」
「弁当と建築をいっしょにしないでくれよ」
「弁当と建築は違うのね?」
「さあどうだろう、少なくともそうあるべきだと思っていたけど」
「建築も弁当もおなじよ、結局、くだらないものをつくり続けるしかないのよ」
「最近それを認めざるをえないという気がしてきたよ」
「珍しく弱気なのね」
「いろいろあるんだよ、つまらない問題が」
 進展のない会話をしながら、ふとかたわらを見ると、目のまえに、細くかよわい白蛇がとぐろを巻いていた。未使用のスケッチブックのような、空虚な白さをしている蛇だった。頭から尾まで病的に白く、切れ長の瞳のなかまで、徹底して白濁していた。長い体躯を黒い地面に這わせ、縦に切れこんだ鼻孔をかすかに痙攣させ、優美に首を傾げて、こちらに鼻面を向けていた。つねったら捻じ切れてしまいそうな、細く脆弱そうな首だった。
 その流麗さに心をうばわれておもわず手を伸ばすと、蛇は滑るように近づいてきて、なんのためらいもなく、わたしたちの身体にぐるぐると巻きついた。建築士は、いつにもまして気難しい顔をして、放心したように虚空を睨んでいる。蛇の出現にまったく気づいていないようだった。
 白蛇の束縛は心地よく、緩やかでありながらも緊密で、全身の力が白蛇のうごめきに相殺され、まるで無重力空間に投げ出されてしまったかのようだった。白蛇は、管のなかを流れる液体のようにわたしたちの表面を這いまわって、いつしか衣服のしたへ潜りこんだ。白蛇はしばらく服のなかで遊び、それから襟元から頭を出し、わたしたちの目の前で頭部を揺らめかせたが、蛇の頭は幾重にも折り重なって見えるので、いったい幾つあるのかよく分らなかった。眼前にせまった蛇の真っ白い鼻面と、わたしたちはまじまじと見つめあった。その白さにはなんだか見覚えがあって、わたしたちはいつもよくやるように思わず赤い舌を長く伸ばし、蛇の目玉の白い濁りを舐め取ってやろうとした。すると驚いたことに蛇の目玉はつるりとはずれて、わたしたちはそれぞれ、目玉を口のなかにふくんでしまった。
 ――呑みなさい。
 声ならぬ声がそう命じたけれども、蛇の眼球は存外に大きく、それにこんなものを呑んでしまっては何か越えるべきでない一線に達してしまうのではないかと思われて、怖かった。眼球はなつかしい素朴な飴玉のように甘く、それでいて過剰に蠱惑的な生臭さがあった。美味いとしか言いようがなく、それを呑んでしまわずに口に含んでいるのは、叶いそうな欲求への行路を目の前で寸断されているようで、つらかった。
 ――呑みなさい。
 誰の声ともつかぬ命令は、厳しくわたしたちに迫った。わたしたちは言われるがまま、ついに意を決してそれを一呑みにした。喉のおくにするどい痛みが走り、食道がずたずたに裂けてしまったに違いないと思われたそのとき、伝承の巨人を身ごもり、産みおとしたのは、白い大蛇であったことを思い出した。その段になってようやく、わたしたちの胸は破れんばかりに高鳴り始めた。きっとあの巨人には、間違いなくこの蛇の血がながれているのである。逆回し、逆回し、と祖母の声が去来する。
 わたしたちは、はるか遠くへつらなる記憶の幻影をいくつも見た。陶然としているそのさなか、けれども蛇はあっさりわたしたちを投げ出し、するりとほどけて逃げてしまった。柔らかな抱擁は唐突に絶え、わたしたちはバランスを失って、地面にくずおれた。
 横ではあいかわらず建築士がむずかしい顔をして、なにかを考え込んでいる。
「ねえ、蛇が」
「え、なんだい?」
「なんでもないよ」
 わたしたちはいてもたってもいられず、すっくと立ちあがり踊りくるいたくてたまらなかった。けれどもわたしたちはぽっかりと虚脱したまま、身動きすることができない。かつてとは違い、わたしたちのからだは大地を愛でるには不完全で、ただ真っ黒の地面にうずくまって、じわじわと焦がれることしか、もうできない。

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